英語を社内公用語とする是非
楽天とユニクロが、社内での公用語を英語とすると発表して
数ヶ月が経過した。
現在、どのような状況になっているのだろうか。
急速にグローバル化が進展している現代社会では、英語や中国語に
関する能力習得は確かに必須であろう。
しかし、これを日本の会社内で公用語にすると言うのは、少し次元
が違う感じがする。
あくまでも我々は日本人であり、日本人としての思考スタイルを
持っている。
言葉を変えてしまうと言うのは、日本人の魂を損なうこと繋がりは
しないかと危惧している。
なぜなら、言葉は言霊(ことだま)と言うように、その民族の心を
表しているからだ。
フランス人は、英語を話すことが出来ても敢えてフランス語を使う
と言われている。
自分達の言葉を、事の他大事にしている証拠である。
日経ビジネスの最新号に、「英語を公用語にする必然」と題して
島田亨楽天野球団社長兼オーナーの考えが掲載されていた。
島田氏は、「英語をコミュニケーションの道具として使うだけで
なく、英語で考え理解する能力」が必須で「徹底して英語化しな
ければ生き残れない」と述べられていた。
しかし、果たしてそうだろうか。
前段の英語で考え理解する能力は、確かに必要だろう。
より正確に言うと、アングロサクソン民族の思考スタイルを
理解することが出来るようになるということだ。
しかし、後段の「英語化しなければ生き残れない」というのは
疑問である。
日本語を使っていては生き残れないとは、日本人として情けない
思いがする。
日本人としての発想や強みを活かして、初めて欧米にはない
付加価値が生み出されるのではないだろうか。
言葉を変えないと内向き思考を脱却できないとか、イノベーションを
起こせないというのは早計だと思う。
これは、言葉の問題ではなく、本人の資質の問題だ。
本来能力のない人間が、話す言葉を英語に変えた位で発想が
広がる訳がない。
返って、根無し草が情報の洪水に押し流されてさらに混乱するのが
関の山だ。
それよりも、日本語の語彙を豊かにし日本語で論理的に思考出来る
人作りに励んだ方がいいと思う。
広い視野を持ち、心豊かに世の中や自然を見て表現することは、
むしろ日本人の得意技だったはずだ。
こう言う見方を、忘れてしまったことが問題ではないか。
「言葉が正確に使えないということは、思想も精神も曖昧だ
ということである。」 唐木順三(評論家)
まず、自分の中に日本語で思考した日本人としてのしっかりした
軸を作る。
それが基本ではないだろうか。
言葉されど言葉。
日本語をもっと大事にしたいものだ。
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コメント
宇宙の成り立ち、古代文明の有様、外国の実情などを知る場合にも、我々は英語を使わなくてはならない。
外国人が我々日本人を理解する場合にも、英語を通して行われている。かな・漢字を通して理解されているわけではない。
だから、英語は、我々にとって単なる一外国語ではなく、とりわけ重要な国際語というにふさわしい情報交換の手段となっている。
英語圏に行けば、片言の英語でも通じる。暮らしてゆける。
完全な英語でなくても、英語環境がととのっているから通用するのである。
英語環境がととのっていれば、そのうちに、英語も上達する。
我が国においては、どんなに英語が堪能であっても就職先に困る。
それは、人々が英語を使わないからである。これでは、暮らしがなりたたない。
日本の学校で6年間英語の授業を受けてもまず話せるようにならないのは、英語環境がととのはないからである。
一歩学校の外に出ると英語を使わないのでは、せっかく習った英語も錆ついてしまう。
日々の学習努力も賽の河原の石積みとなっている。
日本の学生のために英語環境を整えることが、語学力を増すことにつながると考えられる。
それには、英語を我が国の第二公用語にするのがよい。
国民も政治指導者も、英語の使用を日本人のあるべき姿と考えることが大切である。
国際社会において、我が国を代表する政治家にも英語の堪能さが見られない。
日本語のみを使用する社会において、実用にならない言語の学習は空しいばかりである。それにもかかわらず、我が国においては英語教育に名を借りた序列争いばかりが激しく行われている。
英語の学習を民間に奨励するだけでは充分ではなく、英語を習得したことに対する国家の強力な報奨(incentive)が必要であります。
英語を実用の言語とする政治指導者のさきを見据えた努力が大切です。
たとえば、公務員採用試験に英語の能力にすぐれた人物に優遇処置を施すなどの法的裏づけなどが効果的でありましょう。
英米人には、手先・目先の事柄に神経を集中する特技は得られないようである。かれ等は、生涯、歌詠みにはなれないでしょう。
日本人には、英語を使って考えることはきわめて難しい。しかし、これは不可能ではない。全員ではないが、知識人には為せばなる学習であると私は考えています。
わが国民の作る細工物は出来栄えが良い。なおその上、英米流の哲学にも良き理解を示す民族となれば、未来の日本人は鬼に金棒ということになるでしょう。
だから、英語を我が国の第二の公用語とすることには大きな意義があります。実現の暁には、我が国民のみならず、世界の人々に対しても大きな未来が開けることと考えられます。
一見我が国は教育大国を目指しているようであるが、大人の教育はない。つまり、子供が大人になるための教育はない。
我が国においては、教育といえば子供の教育のことを指している。目先・手先のことのみを述べる人は、子供のようである。
大人には考える教育が必要です。一人一人に哲学が必要です。
現実と非現実の間に区別を置くことなく語る人の内容には意味がない。だから、日本の知識人には価値がない。
「感情的にならず、理性的になれ」と国民に訴える指導者がいない。
「国民の感情に反する、、、、、」と言うのでは、主張の論拠にならないが、それのみを言う。
感性 (現実) あって理性 (非現実) なし。我が国は、一億総歌詠みの国にとどまっている。
大学生は入学しても、キャンパスで4年間遊んで過ごすことになる。
無哲学・能天気の大学生は、平和ボケ・太平の眠りの中にいる。
「入学を易しく、卒業を難しく」というような教育方針は現状を観察すれば空しい限りである。
日本人は、国連中心主義が好きなようだ。
国連の議場で世界の人々を説得するためには、自己の言葉が冴えわたる必要がある。
議論のできない人があえて国連中心主義を唱えるのは、自己の他力本願を表明するための手段ということになるのであろうか。
http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812
投稿: noga | 2011年2月19日 (土) 16時47分